春休みに思う 宿題と通知表は不要ではないか?

宿題 ライフケアサポート部門コラム

春休みはいかがお過ごしでしたか?

明日から学校も始まります。このタイミングで春休みの見直しをしてみました。

私の仕事の変化もありますが、3月の春休みからトワイライトに毎日行ってもらって学校がある期間と変わらぬ生活が続いた子どもたち。「春休みがこない」と毎日嘆いていました。

そんな中、上の子は6年生の学習を終え、トワイライトで赤本にチャレンジ中。分からないから進みが悪いようなことを行っていましたが、春休みに赤本に手が出ているなら充分かな?と思っています。

下の子はついに字が読みたくなったようで、読んでいるものが”おしり探偵”とは言え、本を読む楽しさを感じてくれているので一歩成長したと思っています。

2番目も含めて、以前に買った日本史のマンガをちょくちょく読んでいるようで、意外と近代史が楽しいらしいです。

そう思うと、みんな少しずつ成長していますね。一番勉強しているのが一番下の子で足し算やら平仮名やら勉強しています。教えていないのに名前も書けるし順調です。

タブレットで感じる宿題の不要

タブレットの反応

学校から配布されているタブレットをスクショしたので見づらいかもしれませんが、分かってほしくてあえて載せます。

正解が2と1/5になる問題です。子どもはちゃんと書けています。でも、タブレットは1/25だと反応しました。だから不正解です。これで不正解は無理です。3回間違えると×のまま次の問題に移ります。なので、分かっているのに、しかも正しく書いているのに×になり悔しくて泣き出します。これが年間何度も何度も繰り返されます。

だから、我が家ではタブレットの宿題はやらなくても良いと言ってあります。(それでもやろうとしていますが)これでは子どもが学校不信、教員不信になるのも当然です。

ちなみに上の子のときに何度も同じようなことが起きるので、学校に怒りに行きました。宿題を出すなら子どもができるかどうか、一度自分たちで試してみてからにしてくれと、未だに先生たちは試しもせずに宿題を出してきます。

下の子は数字の”5”を書いただけなのに、”6^i(6の i 乗)”となり泣き出しました。そして、「もうやりたくない」と。5の横棒に隙間があったことと、書き初めの指の触れ方で変わるみたいでした。こんなこと鉛筆できれいに書くことがまだできない子どもたちにやらせて何か意味がありますか?

これが年間何度も何度も繰り返され、先生たちは何も直そうとしないのですよ?

タブレット学習の意味

タブレットを使う学習って何だろうと感じます。

紙の宿題をタブレットにしただけなら不具合が多すぎるのでやめて欲しいですね。ペーパーレス化が目的ではないでしょう。

タブレットを使う意味は、休校時でも学習を指示できることや学習が行えることではないでしょうか?

紙で配るものをタブレットに詰めただけなら不要です。紙は減っても電気代が増えます。通信費もかかります。下手をすると無償の教育を家庭に有償で押し付けつことになりかねません。

今年、学級閉鎖になりましたが、zoomで話すわけでも、メールが届くわけでもなく、ただ休みになっただけでした。何ためのタブレットなのか?

冬休みも春休みもタブレットを持ち帰らせますが、学習の進捗をチェックするわけでも、新年や年度変わりに挨拶が届くわけでもなく、ただほったらかしです。休日に働く必要はありませんが、メールの自動設定で新年の挨拶や週に一度の対話はあっても良い気がします。

最低限、何もしないなら持ち帰らせないでください。保管するのが苦痛です。子どもの分だけ使いもしないタブレットを渡されても困るのです。

さらに言うと、ネットに制限がかかっていません。せっかく家庭でテレビの時間やネットに閲覧制限をかけても、学校から配られたタブレットが閲覧制限なしの使いたい放題は信じられません。家庭にすべて丸投げにもほどがあります。共働きの家庭で子どもに目が届かない家庭だとものすごく苦労します。学校の教育放棄とも思えます。

これが今の学校の現状で、学校教育の限界なのです。これを行っている人たちに教育ができるのか?と言う疑問です。

宿題って要りますか?

子ども育てると分かりますが、学校の宿題ってほとんど不要です。有ってもよいですが、なくても何も困りません。

実際、トワイライトに赤本を持って行くことができているので、宿題は不要です。(春休みは宿題がなくて助かります)

勘違いをしている家庭があるので、先に言っておくと自分で勉強しない子がいるからその子のために必要と言うのは違います。宿題と学習は違います。宿題をやって勉強の仕方が身に着くこともありません。

学習は自分で考えて行って、変更や訂正を繰り返して身についていくものなので、初期の段階で”自分でやってみる”ができないと後々苦労することになります。その苦労が中学なのか、高校なのか、大学なのか、社会人なのかの違いです。後ろに下がるほど苦労も大きくなります。

宿題は出しても良いけど、強制しないでと言うことです。やりたい子や必要だと思う家庭がやればよいです。

通知表って要りますか?

通知表もいらないなと感じました。

なぜかと言うと、評価基準が公開されていないからと能力とその他を区別しないからです。

例えば、中学や高校で5段階の5や4をもらってどう思うかです。評価が高ければ嬉しいと言うことは分かりますが、どうしてその評価なのかは不明です。

テストの評価がどのくらいで、その他の評価がどのくらいで、どう評価されたのか。これが分からないとモチベーションになりません。

特に宿題を意欲と評価するのはおかしなはなしです。宿題が個々に適したものであることが前提でなければなりません。

意欲とは学ぶ意欲なので、宿題で測るものではないでしょう。学校内での意欲と言うならそれは学校に従ったかどうかで判断され、自分で努力してみたい人は評価されないですね。

成績とその他は別個に評価を出して、評価基準を公表するなら通知表にも意味はあるかもしれませんが。

小学校は〇や◎、よく頑張ったなどなので、それを見てどう感じろと言うのか分かりません。

学校や先生にもよるのかもしれませんが、テンプレートに差し込みしただけのコメントも冷めますよね。心や温かみを感じないと言うか。手書きする必要はありませんが、コメントくらい考えてくれても良いのに。単なる作業の一部ならコメントもいらないです。しかも、係りや提出物のタイトルを差し込みしただけのコメントってどうなんでしょう?

先生って忙しいとか聞きますが、実態を知っていると何だかなと思います。

少し愚痴っぽくなりましたが、学校の中のことや、教育の実態を目の当たりにしていると、宿題も通知表もいらないですね。

成績に関しては、評価基準を公表してその通りに評価すれば良いです。

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